今日も明日もありがとう。

質素な生活ですけど、楽しいんです。

人はみんな悪くない。周りの環境でそう育ってしまったのだから。

悪くない。

おはようございます。たよちでございます。

当ブログをご覧の皆様も、ほぼほぼの全員の方が『他人と共存しながら』日々の生活を過ごしていらっしゃるかと存じます。それは家族であれ、会社の同僚であれ、ご友人であれ、それか他人では無いですけれども、動物もそうですよね。

で、『他人』と過ごす中で、どうにもこうにも『イラっ』って来る事、絶対にあるかと思います。『あれ、なんでこんな事言っちゃうのかな?』とか『いやいや、その態度の取り方は無いでしょう?』とかね。思いあたる節がたくさんあるかと思います。

しかしながら、私自身もまだまだ出来ていないのですけれども、理想論として『出来る限り、そのイラっとする他人の行動も受け入れるべき』なのですよ。それは何故か?タイトルのにもある通り、人はみんな悪くないからです。

 

  

人の個性は100%合致する事は無い。

 

さて、人間というのは、生まれ育ってから二十歳頃までに育った環境で、潜在的な個性(気質)が決まると言われています。で、生まれ育った環境というのは当然ながら各々違いますよね?似た様な環境があったとしても、100%合致する事はありません。

ですから、例えばお笑い番組を見てて、みんなが笑いそうな所で笑わなかったりだとか、逆にみんなが笑わない所で1人だけたくさん笑うっていうのは何ら可笑しく無い事なのです。人の笑いのポイントも、その笑いの度合いなんて人それぞれ違うはずですよね?

また、ご友人や会社の同僚の方とかと、お昼なんか食べに行こう!って言って、どこかのファミレスとかに入ったとしますよね?そこでご友人やら会社の同僚の方が、みんな『ハンバーグランチセット』をオーダーしたとしても、雰囲気を読んで、それに乗っかる必要は無い訳です。

という事で、我々が日常生活を過ごす上で、どう考えても行動やら価値観が違うのはごくごく当たり前だという前提がまずは存在する訳です。

 

愚痴が多いのも正義。

 

で、ここからが我々人間が社会的活動(誰かと関わりのある活動)をする上で、切っても切れない部分になるのですが、最初から原理原則を簡潔に述べてしまうと、タイトルの通りにもなるのですが『人はみんな悪くない』のです。即ち、『他者の行動は悪くない』のです。

ここで『はあ?何考えてるんだこの人は!』って思った方、多数いらっしゃるかと存じます。まあ無理も無い事だと思います。基本的に『人に迷惑を掛けてしまう行為』というのは、『迷惑だな』と思った側には何ら良い事は無いからです。

しかしながら、よくよく考えて頂きたいのです。その迷惑を掛けた人間って、迷惑を掛けたと思っているでしょうか?恐らく、思っていない事が大半だと思います。または、迷惑を掛けているとは思いつつも、そうしなければならない状況にあるのだと思います。

ばっかやろー。

例えば、あなたの周りにも『愚痴が多い』という方は1人や2人はいらっしゃるのでは無いでしょうか?特に女性の方や、女性の付き合いがある男性の方ですと、もっと多いのでは無いかと思います。そういう方は得てして『愚痴が多くなければ社会活動が出来ない』のです。

これはどういう事なのかというと、その人を構成する潜在的な部分が『ストレス』を溜めに溜めない性質になっているんですよね。これは女性の方でしたら、『あ~わかるわ~』とご理解を頂けるかと存じます。(ちなみに当ブログは女性の方にもけっこう読まれているみたいです)

で、さらに言うと『愚痴を言う事に対して、何ら罪悪感を感じない』のも特徴的なんですよね。むしろ『なんであたしは愚痴を抑えなきゃいけないの?』という意識でいます。無理もありません、愚痴を吐いて生きる事が『当たり前である環境で育てられたから』です。

ですので、この状況下で『毎日毎日愚痴に付き合ってる私の身にもなれよ』とかって言った所で、恐らくけっこうな確率で言い争いになって、不毛な時間を生成してしまう訳なんですよね。

 

私自身に課してる2つの言葉。

 

そして、ここから先は私自身にとっても目標(理想論に近い事)なんですが、上記の愚痴などの私自身にとって『心地よく無い』他人の振る舞いを、快く受け入れられる人間になれればな、なんて目標があったりします。

上記の『愚痴』の例え話にある通り、得てして自分自身が快く受け入れられない行動をする他人の根底にあるのが、『それが悪い行動だとは思っていない』か『そうしないと生きて行けない』かのどちらかだと思います。

だからこそ、それを責めた所で意味が無いのですよね。やってる事は『正義』と『正義』のぶつかり合いである『戦争』が発生する仕組みと全く一緒の事になります。

で、どうやって快く受け入れていくのか?って話になるのですが、私自身に対して、ある2つの言葉を言う様にしています。1つ目が『そうじゃないと生きていけないんだろう』という言葉、そしてもう1つが『そういう育て方をされてしまったんだろう』という言葉です。

 

マナーの悪い人間だって、悪くない。

 

例えば、あなたが電車に乗っている時に、不快な思いをする事は多々あるかと思います。電車の中でスマホやら携帯で大声で電話してるとか、公衆の面前で堂々と化粧しているとか、お菓子やらをボリボリ食べているとか、まあそんな感じですかね。

それでそういう場面に出くわしたら、恐らくごく一般的な対応として『コイツうざい』だの『あり得ない』みたいな感じで内心思ったり、最悪ツイッターやらYouTubeに投稿されてしまう訳なんですよ。

しかし、そこで自分の頭の中に上記2つの言葉を強制的に介入される訳です。『ああ、そうじゃないと生きて行けないんだな』とか『そういう育て方をされてしまったんだろう』という感じで。

実際、電車内のマナーの悪い乗客というのは、上記2つのどちらかに該当しているはずです。例えば、電車内で化粧をしている人は、電車内で化粧はあまりしたくないんだけど、そうせざるを得ない状況下に置かれている可能性は十分にある訳です。どうしても時間が無かったりだとか。

優先席。

また、電車内でお菓子やらおにぎりを召し上がっている方も、周りの人間がそういう育て方をしていなかったが故に、そういう行為に至ってしまうのだと思うのです。また、喉が渇き過ぎたり、お腹が空き過ぎて、どうしても飲み食いしなきゃいけない状況だったのかも知れません。

はたまた、私達が『集団社会の常識=正義』という概念に囚われすぎて、そういった電車内で素行の悪い人間の事を自分自身の中で悪く作り上げてるのかも知れません。例えば、『車内で静かにしているのは当たり前だ(=正義だ)』みたいな感じです。

そういう風に考えると、私は『人の価値観や行動や言動を叩く』という事が出来なくなってしまったのです。元々争い事が嫌いというのもありますが、人それぞれの生い立ちが人を育てあげるからです。即ち、人は本来みんな悪くないのです。

本日もここまで長くなってしまいましたが、ここまでご覧頂きまして、誠にありがとうございます!

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